泣くなよ。

うそ。泣いてもいい。好きにしていい。っていうか泣け。遠慮せず好きなだけ泣いていい。俺も泣く。率先してベソをかく。

昔々 5

「久々の買い物はどうだったかって?
 快適だった。
 あの子がいなければ、彼女は普通の、どこにでもいる一般的な主婦にすぎない。
 普通に品物を選び、普通に精算を済ませ、普通に、誰の目をひくこともなく店を出ることができた。そう思えた。
 とても快適だった。思ったより時間もかからなかったし、上出来だ。そう思えた。

 家に帰ると惨状が待っていた。
 子どもはずっと泣き続けていたのだろう、声がカスカスに枯れた状態で、それでもまだ声なき声で叫びながら涙を流していた。足の包帯はほんのちょっと緩んでいたがほどけてはいなかった。念のため子どもは部屋の中央に座らせ、その部屋にはちゃんと鍵をかけて出かけたのだが、帰ってきてドアを開けたらそのすぐそばに子どもが転がっていてもう少しで開けたドアが直撃するところ、カーペットのあちこちに涙だかよだれだかの跡と思わしきシミがつき、部屋の中に置いていたボックスティッシュの箱からティッシュが全て引き出されてそこここに散乱していた。感情任せに引きむしったのか、それともまさか床につけたシミをなんとかしようとでもしたのかは定かでない。
 母親は真っ青になって転がっている我が子を抱き上げ、しっかと抱きしめた。子はその首にぎゅうとしがみついてやっと声にならない声で叫ぶのをやめ、ただしゃくり上げながら泣き続けるだけになった。足首の包帯をほどくと真っ赤な痕になっており、特に強く包帯が擦れたのだろう、擦り傷様になっている部分もあった。母親は、二度とこんなことをしてはならない、もう絶対にこの子をこんな目にあわせてはならない、と自らに強く強く言い聞かせたのだった。

 もちろん翌週には決心は鈍っていた。それほどまでに一人で出かける買い物は快適だった。しかし我が子をふん縛って置いていって大泣きさせるのはどう弁護しようと虐待だ。
 どうすればいい?
 ただ部屋の鍵を閉めておくだけでもいいだろうか。そう、縛らなければいいのでは。手足の自由が利くのならあの子も落ち着いて待てるのでは。
 実験してみたがダメだった。息子はもうドアノブに手が届くし、簡易鍵だって開けられる。そもそも不自由だけが恐怖の源ではないのだった。彼が恐れているのは母親と離されること、自分の見えないところに母親が消えてしまって泣いても喚いても二度と戻ってこないかもしれないことなのだ。
 こんこんと理を説けば、必ず戻ってくると約束してその証を何か与えてやれば、おとなしくお留守番ができるかもしれない。
 しかしこれもダメだった。説得どころか「買い物」のキーワードが出ただけで激しく泣き叫ぶようになっていた。トラウマになっているのが火を見るより明らかだった。
 ではやはり連れて行くか。これは母親の方がトラウマだった。この子を連れてあそこに買い物に行くくらいならいっそ餓死したい、と真剣に望んでいる自分に気づき、母親はぞっとした。
 結局は包帯とガーゼが解決策となった。わめきながら逃げ回り、縛ったそばからひきちぎろうとするので、もはや足だけの拘束では足りず、手枷とガーゼをかませての猿轡が追加となった。スーパーで良く効く軟膏を物色してこなくては、と、母は脳内の買い物リストのトップに載せた。

 翌々週には子どもはすっかり慣れて、あの号泣が嘘のようにおとなしくなった。母親が必ず買い物からは戻ることを学習したらしかった。
 それでもやはり母と離れるのが嫌で、買い物に行くと言ったときは毎回必ずついて来たがった。母親は「連れて行くことはできないの」と言い続けたが納得しないので、結局毎回拘束を行う羽目になった。
 これが一種儀式のようになり、子どもは拘束されることを「母親は必ず戻ってきてこれをほどく」という約束の証として受け止め始めた。

土砂降り

 一番上の兄貴にはかなわない、と思う事がたびたびあった。変に兄貴風を吹かせたがるタイプで特に幼少の頃、俺は何もしでかしてないというのに「こいつはまだ小さいから、俺が代わりにやらなくちゃ」とばかりにいろんなことにいちいち出張ってくることが好きな奴だった。そうやって目立ってあいでんちちー?とかそういうのを確保するのに必死こいてた部分があったのだ。当然鬱陶しいし本当にブチ殺そうかと悩んだ事が何度もあった。やるなら刃物か鈍器でも持ち出して本気でいかなければ俺は太刀打ちできないのがネックで、そこまでするほどか? と思い返すと言動こそウザイが動機は稚拙ながらある種の善意なのは明らかなので殺意が鈍るのが常だった。俺以上に苦しめられていたのは次男にして真下の弟にあたる二番目の兄貴のはずだがその経験からかこっちの兄貴は俺に向かって威張るようなことはついぞなかった。ただ単純に馬の合わないところがあってよく喧嘩しただけだった。
 そのウザウザ長兄だがときどき何を考えてるのかよく判らないことがあって、というかこいつは本当にモノを考える事が出来るのだろうかと思うくらい何も考えてない所があって、そのくせ突然びっくりするくらいこっちの思考をよく読んできたりするのだった。
 俺が次兄のチャリンコを借りて出てって友達にちょっと貸して返してもらえなくなったときもそうだった。
 別にパクったの何だのといった大したトラブルじゃない。小学生のころ、友達とチャリを交代して乗りながら公園まで行ったらクラスの別の連中とたまたま会って、そのまま大人数入り乱れて遊んで時が経って俺もう帰らなきゃ、じゃーな、みたいな展開になったときにうっかり鍵を友達に預けたまま別れ別れになってしまったのだ。
 チャリの鍵を持った友達は習い事の時間が近いとかで他の友達とチャリ乗り替わりしながら帰ってしまった。そいつが鍵持ってると俺が気づいたのは俺自身が帰らなきゃならない日の入りまで秒読みくらいの時間になってからで、別れてから30分だか1時間だかは優に経っていた。他の友達も皆帰ってしまった。
 俺はちょっと焦った。このチャリは次兄のもので次兄も明日習い事に行くのに使うのだ。何としても明日の夕方までには家に戻しておかなきゃならない。明日学校で会ったときにわけを話して家に寄らせてもらって急いで鍵とって公園まで戻って帰り道を飛ばせば何とかなる、か? 今日は公園に置きっぱなしになるけど、鍵ついてるし多分盗まれないだろう…。
 だが天は俺に対して残酷だった。ふっと見上げるといつの間にか黒雲が立ち籠めており、見る間にしずくがぼたぼた垂れ落ち始めた。チャリを止めていたのは屋根つきの自転車置き場じゃなくて公園入り口すぐ横の駐車場のおまけみたいなちょっとしたチャリ用スペースにすぎなかったので俺は大慌てでチャリを引きずり始めたがあっという間に雨をかぶった。鍵でタイヤが固定されてるのでザリザリガリガリ五月蝿かったがそんなこと気にしてる余裕はない、何とか屋根の下まで自転車を持ってったときにはもう濡れ鼠だった。
 あたりは土砂降りに見舞われもう完全にスコール状態だ。俺はそこで初めて青くなった。雨だというだけなら気合入れて走って帰るが自転車を引きずっていくのは無理だ。かといって屋根の下には放置できない、ここは本来公園に申請登録してカネ払わなきゃ使えない自転車置き場なのだ。現に風除けに無断駐車禁止だの見つけ次第撤去だの罰金だのと恐ろしげな貼り紙が踊っている。泣きたくなった。
 どうしようどうしよう、と頭を抱える間にも周りはどんどん暗くなるし雨脚は全然弱まらない。
 そんなときにざあざあ降りの雨の向こうから現れたのが長兄だった。
 兄貴は「こんなこったろうと思ったよ」とかなんとか言いながら持って来た傘を俺にささせ、自分は鍵のかかった後輪を持ち上げながら自転車を押して家まで帰った。
 俺が傘をさしかけながらだったので当然俺たちは並んで歩いて帰ったはずだが何をしゃべったのか記憶にない。というか、確か雨音がうるさくてろくに会話もなかったはずだ。
 元は兄貴のお下がりの自転車とはいえ当時の兄貴にもずいぶん重かったろうに、結局兄貴はギュウとも言わずに淡々と後輪を持ち上げながらチャリを転がして家に着き、ずぶぬれなのを俺と並んで母親に叱られ、鍵はこいつの友達が間違って持ってっちゃったから明日返してもらうんだってさ、などと俺の代わりに言い訳までした。
 兄貴にはかなわない、と俺が恐れ入ったのはたぶんこの一件がはじめてだった。兄貴は公園についてすぐ、チャリに鍵がかかってるのを見て「鍵は?」と俺に尋ねた。俺は何となく友達に持ってかれたというのが無くしたに等しい非常な悪事に思えてそいつをそのまま白状したらこっぴどく叱られんじゃないかと思って、「持ってる」とぼそぼそ答えた。だが兄貴は即座に「友達に預けたんか?」と返してきて俺は戦慄した。マジで読心されたのかと思った。返事に詰まった俺を見て「まあしょうがねえや、今晩電話でもして明日学校でもらってくればいいだろ」と軽く流して兄貴は自転車を持ち上げた。

 今ならわかるが鍵持ってるなら雨降ってんだからすぐ出せよって話で、それができない=無くしたか預けたかの二択、無くしたにしては焦燥感もないからまあ預けたんだろーみたいな推測が働いたんだろう。
 ただ、あの時の兄貴は明らかに、そういうリクツというか事情というか単なる経緯だけじゃなくて、そこで鍵を返してもらい損ねた俺のミスの痛恨っぷりも見抜いていて、あえてそこをぎゅうぎゅう突ついて俺を俺自身の情けなさで泣かしたりしないようにしたのだった。これが普段だったらバカみたいなミスは徹底的に茶化してバカにしてくるし、そういう兄貴自身が結構なドジでおっちょこちょいなので俺は俺で何かあればここぞとばかりにバカにし返すというパワーゲーム的側面が非常に強い兄弟関係だった(し今もそうな)のだが、この時(そしてこれ以降日常のちょっとしたところでちょくちょく)、兄貴は純粋に俺を思いやったり極力傷つけまいとするような行動をとるようになる。そしてそのいくつかが読心のような妙な前触れのなさでなされるようになっていくのだ。
 それが俺には兄貴の奇妙な底知れなさとして強烈に焼き付いていくことになる。一番上の兄貴にはかなわない、と。

フロアライトのこと

物に対して異様なまでに感情移入してしまうというか、それはほとんど擬人化じゃねえかっていう扱いをしてしまう悪い癖があたしの知り合いにはあった。大昔の同級生で、大学に入ってしばらくまでのあいだ交流があったコだ。一人暮らしをしていたのだがものすごくインテリアとか食器とか服とかにこだわりのある人で、その「こだわり」が彼女自身以外の誰かに理解できた試しはないのだが、とにかく何らかの法則に従って彼女は彼女自身の生活を取り巻き彩るもののすべてを選び抜いて配置していた。といっても選別にめちゃくちゃ悩むとか時間を掛けるわけじゃない。見て、一瞬で、決めるのだ。それが欲しいか欲しくないかを。それを買うことがその時点の彼女にとって必要不可欠かそうじゃないかを。本当に一瞬なので一緒に買い物してる人間は雑談しながらのちんたらショッピングの間にそんな力の入った重大な意思決定のもとに購入がなされたなんて気付かない。普通に「これはこれから使う、必要だな、欲しいな」と思ったから買ったんだろうくらいにしか思わない。それは言葉としては部分的に的を射ているのだが実際的には大外れの理解なので、彼女が買ったものを捨てるのにどれだけの労力をつぎ込まなければならないかを目の当たりにすると絶句することになる。
端的に言えばあのコは物を捨てられない人だった。
買う時には一瞬でしかし入念に吟味を終えて買っていて、つまり「これからよろしくね」と物に挨拶して同居して生活を作り上げていく心境で買っているので、そして「よろしく」されたものがもはや使い古されて役割を終えることがあるとすればそれは間違いなく使い手たる自分がその物をそういった状態に追いやったということであるという世界観で生きているので、役割を終えた物を捨てる事がどうしてもどおおおおおおおしてもできないのだった。「できないよう」と泣きだすというレベルにすら到達できない捨てられなさで、「捨てる」ということに伴うストレスを全力で最大限回避するために、もう捨てるしかないだろとしか言い様のないアイテムをゴミ箱に入れずゴミ袋にも入れずただそこらへんにおいておくのだ。
使い古した物に対してさえそうである。そして普通、この物質的に豊かになった世の中には、使い古すとかそういう段階に達していない、「まだ使えるけど使い道のない物」というのはたくさんあふれている。ちょっとした置物とか棚の飾り物、ビーズだの刺繍だのの完成品といった実用的用途が根本から失われている類の物、着ない服や着られない服、読み終えた本(小説や実用書や画集や辞典)、読んでない本(洋書とか)、使う機会の全く来ていないワッフルメーカーとかクレープ焼き器みたいな調理器具。「まだ使える=もったいない」の理屈でこれらと、そして前述した使い古した物どもが混然一体となって部屋の中に溢れていた。
当たり前だがそんな部屋で安らげる人間はいない。あたしが招かれて泊まりに行ったときだって一日のほとんどを外出してケーキだのアイスだのたんまり食べて過ごした。風呂さえ外注した。近所に温泉があるというので入りにいったのだ。そしてとうとう夜寝るときになって部屋に招き入れられたわけだが、勿論カオスな部屋は衝撃だった。しかし一晩眠るだけだと思ったし本人はごちゃごちゃな、というかぐちゃぐちゃな部屋がちょっと恥ずかしそうだが好意で泊めてくれると言ってるのだしと出来るだけ平然と入室し、もちろん「すごいいろいろあるんだねー」くらいで非難とかこう、「シンジラレナーイ」的目線やコメントを差し向けるのは徹底して避けてありがたくベッドを借りて過ごした。ベッドの上なのに本とか本とか本がいっぱい乗っているので(読みかけと読み終えたものがごっちゃらしかった)、寝るのに身体を縮めて芋虫のごとくなって転がって初めて何だかなあと良くわからないが情けない心境になりかけていた。
そのコがある日引越をすると言い出した。梱包はもう大体済んでいるので積み込みと荷解きや何かを手伝ってほしいと言う。車の手配は別の男友達に頼んだのだそうだ。あの部屋にある物の全てを梱包したら新居は物凄いダンボールハウスになるだろうなと思っていたが流石にある程度整理して捨てただろうとも思っていた。
甘かった。
整理して捨てるどころかそもそも梱包が進んでなかった。大体済んでいるというのは事実じゃなかった。新居ですぐに使うもの、服とかタオルとかシャンプーとかの絶対使う物が梱包されていただけで、残りは依然としていろんなところ(主に床)に散らばっていた。
しかし彼女は嘘をついているのではなかった。そういう意識は彼女にはなかった。彼女の中では実際に梱包は済んでいて、あとは連れて行くかどうか迷っているものたちの処遇を決めなければならなかったのだ。
「連れて行く?」あたしは聞き返した。
「無理だよね。こんなにたくさん。今よりずっと狭いところに越すんだもの」と彼女は答えたがそういう意味じゃなかった。徹底的に散らかった部屋で所在なげにベッドに小さくなって座っている彼女の姿は、都落ちするにあたって長年仕えた召使いたちを大勢解雇しなければならないのにどうしてもそれを決めあぐねている若奥様の姿みたいだった。あたしは初めて彼女がどういう世界に生きているのか理解したような気持ちになった。
「ねえ、あのさ、無理だよ」
「うん、無理だよね、知ってる」
いやそうじゃなくて。と言いかけて、でも何が「そうじゃない」のかわからなくなって、あたしはとっさに話を逸らす。「積み込みの車は何時に来る予定なの」あんまり逸れてないけど。
「あと一時間半くらい」
だめだ不可能だ。これらすべてを収納できる段ボールとスペースがあったとしても、二人で無造作に詰めまくったとしても、これらすべてを持って行くのは無理だ。どう考えても時間が足りない。
床を埋め尽くす彼女のものたちを、脱力に見舞われながら眺める。
「あのねえ。捨てられないんだよね」
この期に及んで何を言い出すのかとあたしは戦慄した。間違っても「欲しい?持ってく?」とか言わないでくれ。
でももちろん彼女はそんなこと言わない。
「捨てなきゃどうにもならないことはわかってんの。わかってはいるんよ」
部屋の真ん中でモノとモノとモノとモノ、時計と布団カバーとコートと文房具と美しい紙箱と料理のレシピ本とマフラーときれいな紅茶の缶と写真集とゲーム機とトートバッグとアイロン台とマカロンのかたちのクッションとアルバムとミネラルウォーターのペットボトルと凝った柄のタオルと室内専用スニーカーと、もうあとは目で追うのも嫌になる雑多な物どもに取り巻かれて、彼女は途方に暮れている。
お別れが辛い。と背中に大きく書いてある。
あたしにははっきり言って理解不能だった。確かに一つ一つは素敵な物かもしれないけど、良いものなのかもしれないけど、こんなにごった煮にごちゃごちゃに置いてあったってどうにもならない。あたしの足下に転がってるペンなんて、かなり洒落た万年筆だけど、どう考えたってここじゃ落ち着いてゆっくりものを書いたりする事なんてできやしない。大体ノートはどこにあるんだ。目につくのは500枚一束くらいの多分A4のプリンタ用紙だけだぞ。
でもそれが私の生活だったのよ。うつむいた彼女の左耳からうなじにかけてのあたりが、そう言っている。
それが私だったのよ、これらすべてが私だったのよ。
私はここで暮らしてきたのよ、周りを物に囲ませて、ここで私は暮らしてきたのよ。
捨てて行くのは、なにか、うろこを剥がされるような、毛を引き毟られるような、そんな心地になってしまうよ。
力なく垂れた腕と、すぐそばに転がっている美しい白磁スプーンの曲線を繰り返し繰り返し撫でる彼女の指が、そう言っている。



あとはもう、なんというか、どうしようもなかった。
あたしは彼女の背中を突き飛ばすように押して、残り時間使ってとにかく段ボールに詰めまくろうと言った。
連れて行かなきゃ始まらないなら、連れて行かなきゃ始まらない。しょうがないじゃない。
そう言って、時間がない時間がないと連呼して、二人して物ものたちを詰めまくった。
壊しさえしなければいい、何がどこにあるかは向こうでゆっくり宝探しして頂戴。
そういうつもりで詰めるから。と言ったら、彼女はやっと、ほんのちょっと笑った。



それから三日後。
半狂乱のそのコから、電話が入った。何を言ってるんだか支離滅裂でよくわからなかったけど、どうやら、旧居に忘れ物をしてしまったようだった。
何だかんだで詰められる物は全部詰め、段ボールのふたがしめられなくても、ままよ入るだけ入れちまえとばかりに詰めて詰めて詰めまくって、段ボールが尽きたらゴミ袋を二重三重にして使って、最終的には奇跡的に、食べたものの袋とかそういうガチのゴミを除いたすべてのものをどうにかこうにか車に積んで新居に出発させた、その現場に立ち会ったあたしとしては納得いかなかった。
あそこにあったものは全部詰めたはずだ。ものすごく大変だったけど、その甲斐あって忘れ物なんてなかったはずだ。
そう言ったら、彼女は一つだけ詰め忘れがあったと言った。
それがフロアライトだった。
物どもを詰めるときに結局夕方すぎまでかかって、最後の最後の最後まで使用していたので、本当に一番最後に詰め込むのをうっかり忘れてしまったのだ。
大学に上京するときに父さんが父さんのお金でお金出してくれて母さんと選んでずっとつけてずっとずっと、あの部屋で何をするにも何を読むにもずっとずっとずっと、というようなことを彼女はしゃくり上げながら延々と言うのだった。
今から取りに戻れないの、と聞いてみた。今日じゃなくても、今週中とか、時間つくってさあ。向こうに連絡しておけば案外都合つけてくれるんじゃないかなあ。
「無理、だめ」と彼女は電話の向こうで嗚咽を抑えてひいひい喉を鳴らしながら言った。
「もう処分されちゃった」。
残置物扱いで、越した日の翌日に、私、あの子を連れてこなかった、あの子のこと忘れてた、ずっと、いつも、灯りつけてくれたのに、まだ、使える、のに、私、ずっと、私、私あの子を処刑させた。



以来、あたしは彼女には会ってない。はっきり言って、ついてけないと思い知った。モノにそこまで感情移入できるくせに普段の扱いはお世辞にも丁寧とは言えないってところとか、あと何だかんだで「モノでしょ?」としか思えない対象にあれだけ取り乱すとかがどう頑張っても理解不能だったからだ。
ただ、あたしはときどき彼女のフロアライトの事を思い出す。モダンですっきりと洗練されたシルエットの、クビが曲がるので手元を照らすのに便利そうなやつ。スポットライトみたいな真っすぐな灯りを落とすやつだった。
あのきれいなライトが不燃物収集のトラックに積み込まれる様子、あるいはゴミ処理場で潰されてひしゃげ、ぐんにゃりしたまま他のゴミともみくちゃになって廃棄所に運ばれる様子、暗い深い穴の中に投げ込まれ押し込まれぎゅうぎゅうの金属クズになって、あとはずっと、そのまま。という様子を。
処刑風景を、何通りにも想像してしまう。
全部あのコのせいだ。

昔々 4

「手の甲が毛糸の帽子をかぶった頭になり、髪に輝く天使の輪を戴いた素の頭になり、小さな肩を小突くのになりふっくらした顔をつねるのになり細い髪を一つかみ引っ張るのになったのはいつだったか、母親はもう思い出せない。
 あっという間だったのは間違いない。
 あっという間にほんのよちよちだった子どもはもうずっと大きくなって、もう幼稚園に上がっても何らおかしくない年になってしまった。
 それなのにあの癖が治らない。
 いつか菓子類を買い物袋ごと車道に放り込んで以来、母親はどんなものを持ってきていようと再精算して買い取るのをやめた。謝ることで許されて結局は買い与えられてしまうから子どもがつけ上がるのだと考えた。
 レジを通った後で何か出てきたら子どもをにらみつけ、一切口を利かず目も合わせないようにした。時にはその場に置き去りにして一人店から去ったこともあった。
 子どもは必ず泣きわめいて詫びの言葉を口にし、売り場に菓子を戻しに行きさえしたが、母親は二度と振り返らなかった。
 菓子やジュースのコーナーに、そもそも彼女は近寄りもしない。
 調味料やパンや肉や魚や野菜売り場に移動するときに通過さえしないようにしていたし、子どもがふらっと吸い寄せられそうになると無言で腕を引き戻して叩き、つねり、髪を引っ張った。
 それでもあの癖が治らない。
 今や全ての店員が冷やかになっていると感じた。どこのレジに並んでも刺すような視線があり、カゴの中身を全て読み取り機に通した後でも「他にお品物はありませんか」と必ず聞かれるのに気づいた。子どもの悪癖が、許され得ないものになろうとしているのを感じた。
 この界隈でまともな買い物ができるのはこの店だけだ。他を探せばずいぶん遠くまで足をのばさねばならない。

 ある日母親は、救急箱の底から包帯を取りだした。
 そして「ママは買い物に行かなきゃならないの」と繰り返し繰り返し呟きながらそれで子どもの両足を縛り、子どもを置いて買い物に出た。
 自由の利かない状態で置いていかれる恐怖に泣き叫ぶ子どもの声が聞こえたが気にならなかった。

かくして悪は仕上がる

 昔まだ小さかった頃、乳離れもおむつはずしもとっくに済んだ年齢のくせにやたらと親にべたべた甘えまくった時期が俺にもあった。やっと言葉をしゃべるようになったくらいの弟が親から甲斐甲斐しく世話をされているのが羨ましいやら妬ましいやらで正直しんどかったのだ。何がなのかは今でもわからん。
 その日も何だか物さびしい気がしてちょっとくっついてみたらあらあらこの子ったらとか何とか言いながら母は俺を抱き上げてくれたがたまたまそこに同席した叔母に向かって言うことには「こうやってかまってやるのもこの子にとっては必要だし大切なことだって判ってるんだけど、ほらあそこであの子が見てるでしょうまだあんなに小さいのにお兄ちゃんにママを譲って必死で我慢してるのよ。あれを見るといじましくってねえ」。
 それから叔母と母は弟の可哀想さと俺の可哀想さを取りとめもないおしゃべりの中で並べたり比べたりして最終的には俺の言動をしょうがないと言って"赦し"、叔母はお土産をたずさえて帰っていった。
 見送ってから「なんだこれはまるでぼくがわるものみたいじゃないか」と俺は思い、思った途端に何かがすっと冷めてしまって結局その日を境に母親に甘えつくことを一切やめた。あまりにすっぱり絶ったので母親が逆に心配して頭をなでてきたりするようになったがその手を振り払って応じるに至った。母親は自然俺よりも弟たちをかわいがるようになり、俺がそれにまた嫉妬して余計な事をしでかしたり必要以上にうるさくするものだからごく微妙なレベルにおいてだが俺は家族の中で「厄介者」「困った子」色を強めていくこととなった。
 なるほどこうやって人は嫌われ者や悪者になったりするのだなと俺は幼心に思ったものだ。