泣くなよ。

うそ。泣いてもいい。好きにしていい。っていうか泣け。遠慮せず好きなだけ泣いていい。俺も泣く。率先してベソをかく。

フロアライトのこと

物に対して異様なまでに感情移入してしまうというか、それはほとんど擬人化じゃねえかっていう扱いをしてしまう悪い癖があたしの知り合いにはあった。大昔の同級生で、大学に入ってしばらくまでのあいだ交流があったコだ。一人暮らしをしていたのだがものすごくインテリアとか食器とか服とかにこだわりのある人で、その「こだわり」が彼女自身以外の誰かに理解できた試しはないのだが、とにかく何らかの法則に従って彼女は彼女自身の生活を取り巻き彩るもののすべてを選び抜いて配置していた。といっても選別にめちゃくちゃ悩むとか時間を掛けるわけじゃない。見て、一瞬で、決めるのだ。それが欲しいか欲しくないかを。それを買うことがその時点の彼女にとって必要不可欠かそうじゃないかを。本当に一瞬なので一緒に買い物してる人間は雑談しながらのちんたらショッピングの間にそんな力の入った重大な意思決定のもとに購入がなされたなんて気付かない。普通に「これはこれから使う、必要だな、欲しいな」と思ったから買ったんだろうくらいにしか思わない。それは言葉としては部分的に的を射ているのだが実際的には大外れの理解なので、彼女が買ったものを捨てるのにどれだけの労力をつぎ込まなければならないかを目の当たりにすると絶句することになる。
端的に言えばあのコは物を捨てられない人だった。
買う時には一瞬でしかし入念に吟味を終えて買っていて、つまり「これからよろしくね」と物に挨拶して同居して生活を作り上げていく心境で買っているので、そして「よろしく」されたものがもはや使い古されて役割を終えることがあるとすればそれは間違いなく使い手たる自分がその物をそういった状態に追いやったということであるという世界観で生きているので、役割を終えた物を捨てる事がどうしてもどおおおおおおおしてもできないのだった。「できないよう」と泣きだすというレベルにすら到達できない捨てられなさで、「捨てる」ということに伴うストレスを全力で最大限回避するために、もう捨てるしかないだろとしか言い様のないアイテムをゴミ箱に入れずゴミ袋にも入れずただそこらへんにおいておくのだ。
使い古した物に対してさえそうである。そして普通、この物質的に豊かになった世の中には、使い古すとかそういう段階に達していない、「まだ使えるけど使い道のない物」というのはたくさんあふれている。ちょっとした置物とか棚の飾り物、ビーズだの刺繍だのの完成品といった実用的用途が根本から失われている類の物、着ない服や着られない服、読み終えた本(小説や実用書や画集や辞典)、読んでない本(洋書とか)、使う機会の全く来ていないワッフルメーカーとかクレープ焼き器みたいな調理器具。「まだ使える=もったいない」の理屈でこれらと、そして前述した使い古した物どもが混然一体となって部屋の中に溢れていた。
当たり前だがそんな部屋で安らげる人間はいない。あたしが招かれて泊まりに行ったときだって一日のほとんどを外出してケーキだのアイスだのたんまり食べて過ごした。風呂さえ外注した。近所に温泉があるというので入りにいったのだ。そしてとうとう夜寝るときになって部屋に招き入れられたわけだが、勿論カオスな部屋は衝撃だった。しかし一晩眠るだけだと思ったし本人はごちゃごちゃな、というかぐちゃぐちゃな部屋がちょっと恥ずかしそうだが好意で泊めてくれると言ってるのだしと出来るだけ平然と入室し、もちろん「すごいいろいろあるんだねー」くらいで非難とかこう、「シンジラレナーイ」的目線やコメントを差し向けるのは徹底して避けてありがたくベッドを借りて過ごした。ベッドの上なのに本とか本とか本がいっぱい乗っているので(読みかけと読み終えたものがごっちゃらしかった)、寝るのに身体を縮めて芋虫のごとくなって転がって初めて何だかなあと良くわからないが情けない心境になりかけていた。
そのコがある日引越をすると言い出した。梱包はもう大体済んでいるので積み込みと荷解きや何かを手伝ってほしいと言う。車の手配は別の男友達に頼んだのだそうだ。あの部屋にある物の全てを梱包したら新居は物凄いダンボールハウスになるだろうなと思っていたが流石にある程度整理して捨てただろうとも思っていた。
甘かった。
整理して捨てるどころかそもそも梱包が進んでなかった。大体済んでいるというのは事実じゃなかった。新居ですぐに使うもの、服とかタオルとかシャンプーとかの絶対使う物が梱包されていただけで、残りは依然としていろんなところ(主に床)に散らばっていた。
しかし彼女は嘘をついているのではなかった。そういう意識は彼女にはなかった。彼女の中では実際に梱包は済んでいて、あとは連れて行くかどうか迷っているものたちの処遇を決めなければならなかったのだ。
「連れて行く?」あたしは聞き返した。
「無理だよね。こんなにたくさん。今よりずっと狭いところに越すんだもの」と彼女は答えたがそういう意味じゃなかった。徹底的に散らかった部屋で所在なげにベッドに小さくなって座っている彼女の姿は、都落ちするにあたって長年仕えた召使いたちを大勢解雇しなければならないのにどうしてもそれを決めあぐねている若奥様の姿みたいだった。あたしは初めて彼女がどういう世界に生きているのか理解したような気持ちになった。
「ねえ、あのさ、無理だよ」
「うん、無理だよね、知ってる」
いやそうじゃなくて。と言いかけて、でも何が「そうじゃない」のかわからなくなって、あたしはとっさに話を逸らす。「積み込みの車は何時に来る予定なの」あんまり逸れてないけど。
「あと一時間半くらい」
だめだ不可能だ。これらすべてを収納できる段ボールとスペースがあったとしても、二人で無造作に詰めまくったとしても、これらすべてを持って行くのは無理だ。どう考えても時間が足りない。
床を埋め尽くす彼女のものたちを、脱力に見舞われながら眺める。
「あのねえ。捨てられないんだよね」
この期に及んで何を言い出すのかとあたしは戦慄した。間違っても「欲しい?持ってく?」とか言わないでくれ。
でももちろん彼女はそんなこと言わない。
「捨てなきゃどうにもならないことはわかってんの。わかってはいるんよ」
部屋の真ん中でモノとモノとモノとモノ、時計と布団カバーとコートと文房具と美しい紙箱と料理のレシピ本とマフラーときれいな紅茶の缶と写真集とゲーム機とトートバッグとアイロン台とマカロンのかたちのクッションとアルバムとミネラルウォーターのペットボトルと凝った柄のタオルと室内専用スニーカーと、もうあとは目で追うのも嫌になる雑多な物どもに取り巻かれて、彼女は途方に暮れている。
お別れが辛い。と背中に大きく書いてある。
あたしにははっきり言って理解不能だった。確かに一つ一つは素敵な物かもしれないけど、良いものなのかもしれないけど、こんなにごった煮にごちゃごちゃに置いてあったってどうにもならない。あたしの足下に転がってるペンなんて、かなり洒落た万年筆だけど、どう考えたってここじゃ落ち着いてゆっくりものを書いたりする事なんてできやしない。大体ノートはどこにあるんだ。目につくのは500枚一束くらいの多分A4のプリンタ用紙だけだぞ。
でもそれが私の生活だったのよ。うつむいた彼女の左耳からうなじにかけてのあたりが、そう言っている。
それが私だったのよ、これらすべてが私だったのよ。
私はここで暮らしてきたのよ、周りを物に囲ませて、ここで私は暮らしてきたのよ。
捨てて行くのは、なにか、うろこを剥がされるような、毛を引き毟られるような、そんな心地になってしまうよ。
力なく垂れた腕と、すぐそばに転がっている美しい白磁スプーンの曲線を繰り返し繰り返し撫でる彼女の指が、そう言っている。



あとはもう、なんというか、どうしようもなかった。
あたしは彼女の背中を突き飛ばすように押して、残り時間使ってとにかく段ボールに詰めまくろうと言った。
連れて行かなきゃ始まらないなら、連れて行かなきゃ始まらない。しょうがないじゃない。
そう言って、時間がない時間がないと連呼して、二人して物ものたちを詰めまくった。
壊しさえしなければいい、何がどこにあるかは向こうでゆっくり宝探しして頂戴。
そういうつもりで詰めるから。と言ったら、彼女はやっと、ほんのちょっと笑った。



それから三日後。
半狂乱のそのコから、電話が入った。何を言ってるんだか支離滅裂でよくわからなかったけど、どうやら、旧居に忘れ物をしてしまったようだった。
何だかんだで詰められる物は全部詰め、段ボールのふたがしめられなくても、ままよ入るだけ入れちまえとばかりに詰めて詰めて詰めまくって、段ボールが尽きたらゴミ袋を二重三重にして使って、最終的には奇跡的に、食べたものの袋とかそういうガチのゴミを除いたすべてのものをどうにかこうにか車に積んで新居に出発させた、その現場に立ち会ったあたしとしては納得いかなかった。
あそこにあったものは全部詰めたはずだ。ものすごく大変だったけど、その甲斐あって忘れ物なんてなかったはずだ。
そう言ったら、彼女は一つだけ詰め忘れがあったと言った。
それがフロアライトだった。
物どもを詰めるときに結局夕方すぎまでかかって、最後の最後の最後まで使用していたので、本当に一番最後に詰め込むのをうっかり忘れてしまったのだ。
大学に上京するときに父さんが父さんのお金でお金出してくれて母さんと選んでずっとつけてずっとずっと、あの部屋で何をするにも何を読むにもずっとずっとずっと、というようなことを彼女はしゃくり上げながら延々と言うのだった。
今から取りに戻れないの、と聞いてみた。今日じゃなくても、今週中とか、時間つくってさあ。向こうに連絡しておけば案外都合つけてくれるんじゃないかなあ。
「無理、だめ」と彼女は電話の向こうで嗚咽を抑えてひいひい喉を鳴らしながら言った。
「もう処分されちゃった」。
残置物扱いで、越した日の翌日に、私、あの子を連れてこなかった、あの子のこと忘れてた、ずっと、いつも、灯りつけてくれたのに、まだ、使える、のに、私、ずっと、私、私あの子を処刑させた。



以来、あたしは彼女には会ってない。はっきり言って、ついてけないと思い知った。モノにそこまで感情移入できるくせに普段の扱いはお世辞にも丁寧とは言えないってところとか、あと何だかんだで「モノでしょ?」としか思えない対象にあれだけ取り乱すとかがどう頑張っても理解不能だったからだ。
ただ、あたしはときどき彼女のフロアライトの事を思い出す。モダンですっきりと洗練されたシルエットの、クビが曲がるので手元を照らすのに便利そうなやつ。スポットライトみたいな真っすぐな灯りを落とすやつだった。
あのきれいなライトが不燃物収集のトラックに積み込まれる様子、あるいはゴミ処理場で潰されてひしゃげ、ぐんにゃりしたまま他のゴミともみくちゃになって廃棄所に運ばれる様子、暗い深い穴の中に投げ込まれ押し込まれぎゅうぎゅうの金属クズになって、あとはずっと、そのまま。という様子を。
処刑風景を、何通りにも想像してしまう。
全部あのコのせいだ。