泣くなよ。

うそ。泣いてもいい。好きにしていい。っていうか泣け。遠慮せず好きなだけ泣いていい。俺も泣く。率先してベソをかく。

土砂降り

 一番上の兄貴にはかなわない、と思う事がたびたびあった。変に兄貴風を吹かせたがるタイプで特に幼少の頃、俺は何もしでかしてないというのに「こいつはまだ小さいから、俺が代わりにやらなくちゃ」とばかりにいろんなことにいちいち出張ってくることが好きな奴だった。そうやって目立ってあいでんちちー?とかそういうのを確保するのに必死こいてた部分があったのだ。当然鬱陶しいし本当にブチ殺そうかと悩んだ事が何度もあった。やるなら刃物か鈍器でも持ち出して本気でいかなければ俺は太刀打ちできないのがネックで、そこまでするほどか? と思い返すと言動こそウザイが動機は稚拙ながらある種の善意なのは明らかなので殺意が鈍るのが常だった。俺以上に苦しめられていたのは次男にして真下の弟にあたる二番目の兄貴のはずだがその経験からかこっちの兄貴は俺に向かって威張るようなことはついぞなかった。ただ単純に馬の合わないところがあってよく喧嘩しただけだった。
 そのウザウザ長兄だがときどき何を考えてるのかよく判らないことがあって、というかこいつは本当にモノを考える事が出来るのだろうかと思うくらい何も考えてない所があって、そのくせ突然びっくりするくらいこっちの思考をよく読んできたりするのだった。
 俺が次兄のチャリンコを借りて出てって友達にちょっと貸して返してもらえなくなったときもそうだった。
 別にパクったの何だのといった大したトラブルじゃない。小学生のころ、友達とチャリを交代して乗りながら公園まで行ったらクラスの別の連中とたまたま会って、そのまま大人数入り乱れて遊んで時が経って俺もう帰らなきゃ、じゃーな、みたいな展開になったときにうっかり鍵を友達に預けたまま別れ別れになってしまったのだ。
 チャリの鍵を持った友達は習い事の時間が近いとかで他の友達とチャリ乗り替わりしながら帰ってしまった。そいつが鍵持ってると俺が気づいたのは俺自身が帰らなきゃならない日の入りまで秒読みくらいの時間になってからで、別れてから30分だか1時間だかは優に経っていた。他の友達も皆帰ってしまった。
 俺はちょっと焦った。このチャリは次兄のもので次兄も明日習い事に行くのに使うのだ。何としても明日の夕方までには家に戻しておかなきゃならない。明日学校で会ったときにわけを話して家に寄らせてもらって急いで鍵とって公園まで戻って帰り道を飛ばせば何とかなる、か? 今日は公園に置きっぱなしになるけど、鍵ついてるし多分盗まれないだろう…。
 だが天は俺に対して残酷だった。ふっと見上げるといつの間にか黒雲が立ち籠めており、見る間にしずくがぼたぼた垂れ落ち始めた。チャリを止めていたのは屋根つきの自転車置き場じゃなくて公園入り口すぐ横の駐車場のおまけみたいなちょっとしたチャリ用スペースにすぎなかったので俺は大慌てでチャリを引きずり始めたがあっという間に雨をかぶった。鍵でタイヤが固定されてるのでザリザリガリガリ五月蝿かったがそんなこと気にしてる余裕はない、何とか屋根の下まで自転車を持ってったときにはもう濡れ鼠だった。
 あたりは土砂降りに見舞われもう完全にスコール状態だ。俺はそこで初めて青くなった。雨だというだけなら気合入れて走って帰るが自転車を引きずっていくのは無理だ。かといって屋根の下には放置できない、ここは本来公園に申請登録してカネ払わなきゃ使えない自転車置き場なのだ。現に風除けに無断駐車禁止だの見つけ次第撤去だの罰金だのと恐ろしげな貼り紙が踊っている。泣きたくなった。
 どうしようどうしよう、と頭を抱える間にも周りはどんどん暗くなるし雨脚は全然弱まらない。
 そんなときにざあざあ降りの雨の向こうから現れたのが長兄だった。
 兄貴は「こんなこったろうと思ったよ」とかなんとか言いながら持って来た傘を俺にささせ、自分は鍵のかかった後輪を持ち上げながら自転車を押して家まで帰った。
 俺が傘をさしかけながらだったので当然俺たちは並んで歩いて帰ったはずだが何をしゃべったのか記憶にない。というか、確か雨音がうるさくてろくに会話もなかったはずだ。
 元は兄貴のお下がりの自転車とはいえ当時の兄貴にもずいぶん重かったろうに、結局兄貴はギュウとも言わずに淡々と後輪を持ち上げながらチャリを転がして家に着き、ずぶぬれなのを俺と並んで母親に叱られ、鍵はこいつの友達が間違って持ってっちゃったから明日返してもらうんだってさ、などと俺の代わりに言い訳までした。
 兄貴にはかなわない、と俺が恐れ入ったのはたぶんこの一件がはじめてだった。兄貴は公園についてすぐ、チャリに鍵がかかってるのを見て「鍵は?」と俺に尋ねた。俺は何となく友達に持ってかれたというのが無くしたに等しい非常な悪事に思えてそいつをそのまま白状したらこっぴどく叱られんじゃないかと思って、「持ってる」とぼそぼそ答えた。だが兄貴は即座に「友達に預けたんか?」と返してきて俺は戦慄した。マジで読心されたのかと思った。返事に詰まった俺を見て「まあしょうがねえや、今晩電話でもして明日学校でもらってくればいいだろ」と軽く流して兄貴は自転車を持ち上げた。

 今ならわかるが鍵持ってるなら雨降ってんだからすぐ出せよって話で、それができない=無くしたか預けたかの二択、無くしたにしては焦燥感もないからまあ預けたんだろーみたいな推測が働いたんだろう。
 ただ、あの時の兄貴は明らかに、そういうリクツというか事情というか単なる経緯だけじゃなくて、そこで鍵を返してもらい損ねた俺のミスの痛恨っぷりも見抜いていて、あえてそこをぎゅうぎゅう突ついて俺を俺自身の情けなさで泣かしたりしないようにしたのだった。これが普段だったらバカみたいなミスは徹底的に茶化してバカにしてくるし、そういう兄貴自身が結構なドジでおっちょこちょいなので俺は俺で何かあればここぞとばかりにバカにし返すというパワーゲーム的側面が非常に強い兄弟関係だった(し今もそうな)のだが、この時(そしてこれ以降日常のちょっとしたところでちょくちょく)、兄貴は純粋に俺を思いやったり極力傷つけまいとするような行動をとるようになる。そしてそのいくつかが読心のような妙な前触れのなさでなされるようになっていくのだ。
 それが俺には兄貴の奇妙な底知れなさとして強烈に焼き付いていくことになる。一番上の兄貴にはかなわない、と。